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富田林のため池と浅川堤

印刷用ページを表示する掲載日:2024年2月29日更新
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古くから農業用水を確保するため、それぞれの村では井路(いじ)を引いたり、溜池を造ったりしてきました。
新堂新池は新堂村の日野徳左衛門が、中野新池は中野村の多田三重郎が中心となって築造された池です。
毛人谷村(えびたにむら)では庄屋辻茂八が五ノ坪池の工事に尽力し、北大伴村では庄屋芝野七左衛門を中心に南大伴村領の谷間に溜池を築き、芝池と呼ばれました。
別井の虎ヶ池は当初辰巳池といいましたが、池の築造をめぐる裁判で尽力した虎屋久兵衛に因(ちな)んで虎ヶ池と呼ばれるようになりました。
明治池は、中野国松・成川重次郎・内田猪十郎が発起人となり明治27年(1894年)に完成した池です。
河川から離れた地域で井路や溜池を設けて生産量の維持拡大がはかられた一方、河川に接する地域では堤を設け、水害から土地を守ると共に農地の開墾がはかられました。
甲田村はたびたび大水によって石川の堤が決壊し、農地が流失・荒廃して人々は非常に苦しみました。
天保2年(1831年)に庄屋の家に生まれた浅川八郎は、祖父八左衛門の意思を継いで堤の築造を計画し、約10年間かけて明治8年(1875年)に総延長約1250メートルの堤を築き、荒れ果てた耕地を復旧すると共に新たに8ha余りの耕地を開墾しました。堤のおかげで大水の被害から免れ、約13haもの良田が生まれました。堤は浅川堤と呼ばれ、現在もその一部が残り、宅地化でかなり減少したとはいえ農地が今なお広がっています。
浅川八郎が亡くなった後、その多大な功績に感謝し記念碑が建てられました。

文化財課(内線496)

浅川堤をのぞむ

浅川堤

浅川八郎翁の碑

浅川八郎翁之碑

 

(令和6年3月号)    ​

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