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中野遺跡の調査から

印刷用ページを表示する掲載日:2018年3月5日更新
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 昨年の11月から12月にかけて、富田林税務署の北東約50メートルの中野遺跡内で発掘調査を行いました。
 この調査では、自然流路は、西から東に流れるもので、幅は約30~50メートル、深さはもっとも深いところで約80センチあります。この流路には、古墳時代から奈良時代の遺物が含まれていました。このことから、奈良時代に埋まってしまったことがわかりました。また、流路の底には砂の堆積があって、当初は豊かな水量があったことがわかります。その後は、粘土状の堆積に変わってしまい、だんだん水の流れが悪くなり、最後には埋まってしまったことが、堆積状況から読み取れます。
 調査地周辺の環境をみると、西方には羽曳野丘陵があって、丘陵から流れる水が流路に流れ込んでいたと思われます。また、外環状線と羽曳野丘陵との間には、飛鳥時代に創建された新堂廃寺があって、当時、仏教文化の中心地であったことがわかります。新堂廃寺は、過去の発掘調査から奈良時代に造成されて、建て替えられたと考えられています。さらに、調査地南方の近鉄長野線の線路から西側では、奈良時代から平安時代にかけて掘立柱建物群があったことがわかっています。
 こうしてみると、奈良時代から調査地周辺の環境が変わったことがわかります。今回の調査では、自然流路を境に、南には集落が、北には水田が広がっていたと思われ、中世には、一帯が水田に整備されていったことがわかりました。
(平成2年4月号)

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