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震災と人権~そのとき私たちができること~

印刷用ページを表示する掲載日:2018年3月5日更新
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3月11日に発生した東日本大震災。死者・行方不明者19,648人、避難者数71,578人(10月18日現在 内閣府発表)。東北地方を中心に関東地方や太平洋沿岸部を地震による津波が襲い、多くの犠牲者を出しました。発生から半年以上が経過し、国、自治体、企業、住民が一体となって復興への取り組みが行われています。

本市も消防隊員や職員らを派遣するとともに、義援金の受け付け、支援物資の提供など継続的に支援を実施しています。
こうした中、この大震災では、現在の日本社会に潜在するさまざまな問題が顕在化し、私たちに多くの課題を突き付けられたように思います。

フクシマ差別

福島原発による放射能漏れでは、電力の供給不足や原子力発電の安全性から将来のエネルギー問題をはじめ、放射能の人的影響や農業・漁業など産業への被害など地域の安全をいかに確保するのかといった問題、また福島出身、福島ナンバーの車という理由だけで拒否されたり、遠ざけられたり、偏見の目で見られるという、いわゆる「フクシマ差別」といったものも生じています。

そのため、放射能被害から逃れて県外に避難しても、福島から来たということを隠しながら生活をせざるを得ないという非常に悲しい現実があります。またその一方で、どこへも避難することができず、仕方なくその土地に滞在し続けている人がいることも事実として受け止めなければなりません。

原発事故によってある日突然、差別的に扱われ、昨日まで当たり前のように持っていた権利が侵害されるという構造は、戦後の広島、長崎に対する眼差しと、現在のさまざまな差別問題の根底にあるものと共通しているような気がします。

避難所での配慮のなさ

震災発生以後、今なお多くの人たちが避難所生活を強いられていますが、避難所での生活や運営にあたっては、ジェンダー意識による性別役割分業が厳しいと聞きます。また、衣服の着替えなどプライバシーが十分に確保されていなかったり、乳幼児を抱えるある母親は、授乳場所や子どもの泣き声で周囲に気をつかい、避難所の外であやしているそうです。

避難所や被災現場では特に女性に対する暴力が深刻で、DV被害にあっていた女性が震災によって居場所を知られた例や、仮設住宅の入居によって人目がなくなりDVがひどくなった例、さらに女性への性的暴力が起きているため、水分を十分に摂らずトイレに行くのをできる限り我慢し病気にかかる人もいます。

障がいのある人たちにとっても、慣れ親しんだ施設での生活から避難所という不慣れな環境に長期間さらされることによって、ストレスを抱え、パニックを起こし、結果として被災した元の施設に戻って水も出ない中で集団生活を余儀なくされているところもあります。また、仮設住宅にやっとの思いで入居しても、段差で転倒したり、車いすでの出入りが困難だったりと設備がバリアフリーになっておらず、障がい者だけでなく高齢者も大きな不安を抱えています。

これらの問題は16年前の阪神・淡路大震災後にも指摘されていたことでした。今回の震災を機にもう一度さまざまな角度から検証し、防災、復興において今後の教訓として生かすことが重要です。

被災地の声を知る

また、このような原発や避難所、仮設住宅の実態をはじめ、被災現場では倒壊した家屋から物が盗まれているといった被害があるという現実はあまり知られていません。

被災地から遠く離れ、メディアを通じてのみ情報を手に入れることしかできない私たちは、震災に対するリアリティさを持たないため、被災者の声に真摯に耳を傾け、その思いを巡らすという「想像力」を持つとともに、メディアが「現実」を構成しているということを理解し、メディアからの情報を一方的に受け入れるのではなく、主体的に読み解く力(メディア・リテラシー)を身につけることが必要であると言えます。

モノが言える環境をつくる

地震と津波による被害に加え、避難先でも安心して暮らせないのは本当につらいことです。地震や台風などによる災害という非常事態においてこそ、女性や障がい者、高齢者、子どもたちに対する配慮が必要であり、またそういった人たちがモノを言える環境をつくることが必要です。

多くの国で憲法の人権規定のモデルとされている世界人権宣言をはじめ日本国憲法では、人として健康で幸せに生きる権利、自由に移動する権利がすべての人に保障されており、誰からも侵害されることはないのです。

私たちにできること

私たちもいつ災害に見舞われるか分かりません。災害発生時の避難所運営から復興、防災というあらゆる場面において、女性や障がい者、高齢者などに対して、地域としてまた私たちも何ができるのか日頃から考えておく必要があります。

今年の市人権展では、災害時における権利の問題をテーマに、被災地で何が起きているのか、報道では伝わらない実情と、今後の防災や避難所運営、復興計画などそれぞれの段階で、私たちに何ができるのかを考えたいと思います。  

ボランティアに参加して   鶴岡 弘美さん(市人権協議会)

いざ、南相馬へ

仙台空港から宿舎に向かう道は真っ暗闇で、周囲がどのような景色なのかほとんど見当がつかない。宿舎は福島原発から22.5キロ地点にあり、個人宅を一定期間、借り受ける形で使用されていた。この家の持ち主はどんな方だろうか。3階のロフトにはサーフィンボード、サーフィンスーツが掛けられ、子どもの本棚と思われるところには生き物図鑑や漫画などが並べられていた。海好きの両親と生き物好きの子どもたち、原発事故のために家を離れなければならなくなった。どんなにか悔しかったことだろう。

祈る気持ちで

2日目、屋内で写真洗浄作業を行った。津波で流されたアルバムや写真ホルダーを一枚一枚丁寧にはがし、スポンジや筆、ハケなどで泥を取り除いていく。私が手にした写真は、結婚式での新郎新婦や披露宴、お正月の着物を着た子どもの姿、中学生らしい友人同士の写真、運動会の楽しそうな場面などであった。この方たちはみんな無事なのだろうか。

30キロ圏外に住む中高年の女性は、娘と孫が愛媛県松山市で避難生活を送っており、「あの子たちが帰ってこれない故郷にいつまでもこのまま暮らしていていいものだろうか。いっそ、強制退去区域に指定してくれた方が諦めもつく。私たちには判断できる何の専門知識もない。本当にどうしたらいいのかわからない。」と嘆いておられた。そこには家族や親戚がバラバラにされているという厳しい状況があった。

恐怖感が薄れていく恐怖

3日目、ある民家の側溝の泥出し作業を行った。側溝をきれいにさらうとカニが多数出てきて驚いた。こんな汚染された環境の中にも生き延びている生命のたくましさを感じた。

ボランティアの人たちはみんな、空気中の放射能にさらされているというのに黙々と働く。休憩時間になると防塵マスクを外し、おいしそうに水分補給をする。

宿舎に戻って放射線量を量ると0.25~0.86マイクロシーベルト(ある時は1を超える)あたりを常に変化している。目に見えない、臭いもしないだけに、放射能の恐ろしさは何ともいえない不気味さだ。

しかし3日目となると、放射線量に対しても鈍感になってくる。少々の雨に濡れてもさほど気にしなくなったり、食堂やコンビニには店員さんが働いているし、家の明かりが見えたりすると、何となく「大丈夫なのかな」と思えたりした。その一方で恐怖感が薄れていく恐怖を感じた。

最終日は、福島原発から20キロ地点の進入禁止区域手前まで行った。「立入禁止」とされた地点より100メートルほど外側にあるコンビニが開店営業していたことには驚いた。

海岸線では堤防が決壊し、辺り一面何もないだだっ広い水たまりを含む平地が広がっていた。壊れかけて残っている民家や、瓦礫の山が積み上げられていた。復興の印としてのひまわり畑もあった。少し高台になっているところは、全く被害にあっていないようで、海に近いところでも高低差が大きな被害の差をもたらしたようだった。

人命尊重を最優先に

私はたった3泊4日を過ごしたけれど、そこには大きな不安を抱えながらも避難移住できない地元の人たちが多く住み続けており、今後の健康被害がどう現れるのか予測もつかない中で、何をどうすればよいのかを早急に打ち出さないと手遅れになると強く感じた。政府をはじめ諸外国、企業、マスコミ、NPO、専門家や個人など多くの英知と緊急かつ計画的な財力(予算・寄付金・義援金など)を駆使して、人命尊重の立場から早急に決定し実行しなければならないと思う。

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