喜志南遺跡(喜志町)の発掘調査で、新発見が相次いでいます。令和3年度に5世紀末に造られた浮ヶ澤古墳が見つかりましたが、令和5年度はその南側で、さらに古い5世紀前半の「(仮称)喜志南カイト古墳」が埋もれていることが分かりました。
今回見つかった墳丘を囲む大きな濠や堤、埴輪は、世界遺産の古市古墳群(藤井寺市・羽曳野市)の古墳と比べても、いずれも見劣りしません。初公開となった大阪大谷大学博物館における「大とんだばやし展」の追加展示(令和6年6月)では、ケースにギリギリ納まった大型の円筒埴輪が、ひときわ存在感を放っていました。
さて、古墳は推定で一辺約30mの方墳と考えられます。「埴輪は立派なのに、なぜ前方後円墳ではないのか」との声が展示会で聞かれましたが、それこそが今回の成果の鍵になります。墓の形から紐解いていきましょう。
四角い墓は、弥生時代からありました。「方形周溝墓」と呼ばれるもので、古墳に比べると低くて小さく、それを囲む溝も浅いものです。喜志西遺跡(喜志町)などから複数見つかっています。
古墳時代に入ると、形と大きさで身分を表現する古墳が出現します。形におけるランクの頂点は前方後円墳で、方形周溝墓の流れを引き継ぐ方墳は、最初は円墳よりも低かったとの見方もあります。
ところが5世紀になると、古市古墳群などの前方後円墳の周囲に、方墳が整然と配置されるようになります。大きな墳丘や濠、埴輪を備えるものや、武器などを大量に納めるものも見られ、それまでの方墳とは一線を画す存在です。前方後円墳の被葬者を支えた重要人物の墓として、方墳に新たな意味が与えられたのです。
喜志は同古墳群と距離的にも近く、石川でも繋がっています。そこに同じような方墳が造られたことは、交流の面でも深い関係があった証です。喜志南カイト古墳の被葬者は、地の利を活かして王権を力強く支えていたのでしょう。
*浮ヶ澤:うきがさわ 、周溝墓:しゅうこうぼ 、円筒:えんとう
(令和6年10月号)