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富田林寺内町

印刷用ページを表示する掲載日:2018年5月31日更新
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寺内町の誕生

富田林寺内町は、兵火と一揆が絶え間なかった16世紀半ばの戦国時代、ここ南河内、石川の畔に生まれました。

永禄初年頃(永禄年間1558~1570年)、本願寺一家衆の京都興正寺第16世の証秀上人が、南河内一帯を支配していた守護代の美作守安見直政(これには諸説あります)から富田の「荒芝地」を銭百貫文で購入。興正寺別院の御堂を建立し、上人の指導のもと近隣4か村の庄屋株が中心となり開発が行われました。町全体を仏法の及ぶ空間、寺院の境内と見なして信者らが生活をともにする宗教自治都市「じないまち」の誕生です。

村絵図の画像
安永7年(1778年)の村絵図

寺内町の景観

誕生した頃の寺内町は、外周に土塁を巡らせ堀割もありました。4か所ある町の出入り口にはそれぞれ木戸門が構えられ、夜間は閉ざされて治安を守っていました。町は興正寺を中心に整然と並ぶ六筋七町(後に六筋八町)で、宅地や畠などが計画的に配置されました。広さは東西約400メートル、南北約350メートルで現在の富田林町にほぼ相当します。

この整然とした町割の区画は今もほぼ元の姿をとどめており、辻角のあて曲げや用心堀、今も断片的に残る土居跡に昔日の面影がうかがえます。

区域図

戦乱を生き抜く

証秀上人から寺内町の開発をまかされたのは、近在の中野、新堂、毛人谷、山中田の4か村の庄屋株を持つ「八人衆」。村のことは、合議制で決められていました。

彼らは町の周囲を土居で囲んで戦乱を避ける町づくりを工夫すると同時に、地域の支配者から諸公事(税)を免除させたり、地元人に有利な裁判ができるような都市特権を獲得します。世に言う石山合戦の頃も、本願寺と同じ一向宗であるにもかかわらず織田信長に妥協し「寺内別条なき」という安堵の保証をさせています。

寺院の威光を利用しながら都市特権を広げていくという、民衆のしたたかさを見ることができます。

 

興正寺別院表門の画像
伏見城の城門を移築したと伝わる興正寺別院表門

寺内町の発展

江戸時代に幕府の直轄地となった富田林寺内町は「在郷町」として大きく発展します。

このころから富田林周辺では米作に加えて、綿や菜種の栽培が盛んになり、これら農作物を扱う商人が現れます。富田林の商人たちは、東高野街道や石川を使って商品の物流に大きく関わることになります。

また、元禄期には豊富な米と恵まれた水によって酒造業が発達しました。当時の記録から、町内の7軒の酒造家で当時の河内全体の酒造高の最大約20パーセントを生産していたことがわかっています。

剣先船の画像
大和川、石川を往来した剣先船

近代化と寺内町

明治に入っても富田林は南河内の中心でした。郡役所や警察署が古市から移転し鉄道や国道も開通しました。寺内町の旧家から見つかった当時の写真乾板には、自転車レースやビリヤード、卓球を楽しむ人々、バイオリンを弾く女性の姿などが残されており、町の人々が新しい時代の文化をいち早く取り入れていたことがわかります。

しかし、人の流れはしだいに寺内町から駅前へ移り、地主の多くは大戦後の農地改革により農地を手放し、さらに自動車の普及により町は次第に華やかさを失い、大都市近郊の静かな衛星都市へと変わっていきました。

ビリヤードを楽しむ人々の画像
ビリヤードを楽しむ人々(葛原祥正氏蔵)

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