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東高野街道錦織一里塚

印刷用ページを表示する掲載日:2018年3月5日更新
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旧国道170号線を富田林から河内長野に向って行くと汐ノ宮駅の手前、近鉄長野線と道路が最も接するあたりの東側に、こんもりと盛り上がった築山のような場所があります。ここはかつて東高野街道の一里塚の一つで、西側にも同じような場所があり、それぞれ東塚、西塚と呼ばれていました。
一里塚は中国に起源をもっています。街道に沿って一里(約4キロ)ごとに塚のような土の高まりを築いて大樹を植え、一里の目印にしたといわえています。日本では江戸時代のはじめに全国のあちこちに造られました。
錦織一里塚は1辺が約9メートルの正方形で、高さは約2メートルあります。かつては、この塚上に一本松と榎(えのき)が繁り旅人に日陰を与え、旅の休憩場所として利用されていました。昔はどこにでも見られた一里塚ですが今ではほとんどが消失し、この錦織一里塚は数少ない遺構の一つとして大阪府の史跡に指定されています。
東高野街道は京都から枚方の山すそを通って富田林へ入り、喜志~新堂~富田林寺内町をすぎ、錦織から河内長野を通って高野山へ通じていました。
錦織一里塚を訪ねると江戸時代を通じて高野山への参詣道として発展し、多くの旅人が行き来した往時がしのばれます。
参考文献 「富田林の文化財」富田林市教委発行
(平成元年8月号)

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