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人麻呂塚

印刷用ページを表示する掲載日:2018年3月5日更新
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錦織小学校の西側の小高い丘陵地に登ると錦織から石川、彼方にかけての市街地を一望することができます。
このあたりは古くから聖音寺山(そんじょやま)と呼ばれたところで、丘陵のほぼ中央に、この名の由来となった聖音寺という廃寺があります。本堂には楠木正成の身代わりとなったという伝説から゛矢疵(やし)観音″と呼ばれる如来輪観音像が安置されています。この仏像は、高さ40センチほどのヒノキの寄せ木造りで室町時代の逸品として知られています。
この寺は明治7年無住となりましたが、柿本人麻呂の創建といわれ、境内の東隅には人麻呂塚と呼ばれる石碑があり、次のような歌が刻まれています。『夜もすがら あかしがれらに たくものは 錦織山の妻木なりけり』江戸時代の享保年間に記された「河内志」はこの塚を、柿本とは別人の河俣人麻呂の塚であろうとしています。しかし、これを万葉歌人として有名な柿本人麻呂の塚とする説(万葉集の研究家土屋文明「万葉集私見」) もあります。
柿本人麻呂は持統朝の宮廷歌人の代表者であり、逸歌にことにたくみで、数多くの歌を残しています。ただしその経歴は不明の部分が多く、その没年、没場所も分かっていません。人麻呂塚と称するものは各地にありますが、どれも柿本人麻呂の塚と裏付ける確証はありません。ただ辞世の歌や妻の嘆きの歌などから、前途の土屋文明は河内説をとり、斎藤茂吉、梅原猛は石見(島根)説をとっています。
※柿本人麻呂:万葉歌人で36歌仙の一人。天武・持統・文武朝に仕え、六位以下で舎人として出仕。石見国の役人にもなり、讃岐国などへも往復、旅先で没した。(「広辞苑」から)

(昭和63年8月号)

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