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大阪府指定史跡『水郡邸』

印刷用ページを表示する掲載日:2018年3月5日更新
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 市役所の南部、甲田二丁目に水郡邸があります。伊勢神戸藩の代官で、また大庄屋であった水郡家によって、安永2年(1773年)に建てられたものであり、現在でも当時の大庄屋としての姿をとどめているとともに、明治維新の先鋒をなしたとされる天誅組が軍議をこらしたという歴史的に重要な邸でもあります。
 文久3年(1863年)、孝明天皇の大和行幸の詔が出た翌日、前侍従の中山忠光を総帥とする「後に天誅組と呼ばれた人々」は、尊王攘夷(そんのうじょうい)派(※)の先鋒として京都を出発し、堺で船を降りた後、狭山を通って甲田村の水郡邸に入りました。
 その際、当時水郡家の当主であった水郡善之祐は、息子の英太郎と周辺の村からの同士など数十名を率いて、中山忠光と会見し、かねてより蓄えてあった武器や食料などを天誅組の人たちに提供しました。中山は、この用意周到な準備と尽力をたたえ、天誅組一同が水郡邸に一泊して、部署を定め軍略を練りました。
 翌日、夜明けに隊を整え、三日市、観心寺を経て、千早峠を越え、五条で行動を起こしましたが、時を同じくして京都で発生した政変の影響で事態は変化し、天誅組は壊滅に追い込まれることになりました。
 この事件は、数年後の明治維新のさきがけとして、日本近代史に残る重要な事件になり、一行が宿泊した水郡邸のあるこの地は、大阪府指定文化財として昭和49年3月29日に史跡指定されました。
 当時、尊王攘夷を掲げ、活動をしていた中心的な人たちは、下級武士や善之祐のような人たちで、水郡邸の周辺の村から天誅組に参加した人たちの名前が書かれた石碑が錦織神社の参道わきに立っています。
※尊王攘夷:幕府を倒して、天皇中心の政府をつくり、外国勢力を打ち払うという考え方
(平成15年6月号)

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