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中佐備須恵器窯跡

印刷用ページを表示する掲載日:2018年3月5日更新
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 古墳時代に使われた土器には土師器(はじき)と須恵器(すえき)があります。
 土師器は、縄文・弥生時代の作り方を受け継いだもので、地面を浅く掘りくぼめた中に土器を置き、その上に薪を積んで焼きます。
 一方、須恵器は古墳時代に入って朝鮮半島から伝わった技術で作られた土器です。ロクロを使って形を整え、本格的な窯を築いた中に土器をつめ、松などの薪を燃料として焼きます。
 土師器は赤褐色の焼きあがりになりますが、須恵器は高温で焼くことができ、また、密閉状態で焼くため空気が遮断されて灰青色の堅い焼きあがりになります。
 この須恵器を焼いていた窯跡が佐備川中流右岸の丘陵斜面で確認されました。今年2月からの調査を始めましたが、残念なことにすでに破壊されていて遺構の状態ははっきり分かりません。これまでに須恵器の破片が大量に出土していますが、窯の温度が上がり過ぎて融着したり変形したものなど、窯跡でなければ見ることのできない土器片が多く混じっています。
 須恵器の窯跡は、大阪西南部の泉北丘陵で600基以上が見つかっており、ここが『日本書紀』の崇神紀(すじんき)に書かれている「陶邑(すえむら)」に当たると考えられています。中佐備の窯が築かれたのは、この陶邑で須恵器が作られ始めてから100年ほど後のことです。大阪西部に古くから大規模な土器製造集落が営まれていたとき、遠く離れた富田林の山間でも須恵器が作られていたわけです。この地域にいた豪族の勢力をうかがうものとして興味深い遺跡といえます。
(昭和61年5月号)

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