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『新堂廃寺式』伽藍配置の発見

印刷用ページを表示する掲載日:2018年3月5日更新
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 市内緑ヶ丘町の府営住宅内に広がる新堂廃寺は、早くから南河内最古の古代寺院として有名ですが、昨年度の調査で飛鳥時代(七世紀前半)の創建当初から講堂、金堂、塔、中門、南門まで南北方向に一直線上に並ぶ四天王寺式と呼ばれている伽藍配置で造営計画がなされていたことが判明されました。しかし、それらの伽藍は南門の完成を見ないままに倒壊してしまい、白鳳時代(七世紀後半)に元の伽藍を再建するとともに新たに金堂と塔の西側に西方建物を造り、この時に南門も完成したことが明らかになっています。
 その全容が見えたように思えた新堂廃寺でしたが、今まで調査の及んでいなかった寺域東側については不明なところがまだ多く残っていました。例えば、東がわに門が設けられていたのか、回廊で囲まれていたのか、それとも別の建物が建てられていたのかなど様々な推測がなされてきました。そこでそれらを解決するため、今年九月、新堂廃寺の東域を調査しました。
 その結果、西方建物とほぼ対称的な位置に、東方建物と呼ぶべき建物の基壇遺構と出入り口にあたる階段跡、さらに建物に附属する雨落ち溝を発見することができました。これらの遺構は残念なことにそのほとんどが府営住宅の建設時につぶされていたため、きわめて検出困難な状況になっていました。しかし、わずかな土地の高まり、浅い溝の痕跡など、少しでも建物に関係すると考えられる痕跡を見逃さないように慎重に調査をすすめた結果、東方建物とが判断してもいい成果を得ることができました。この調査で再建後の新堂廃寺は、東西に建物が配列されたわが国初の伽藍配置をもつ寺院であったことが判明したのです。
 今のところ、これら東西の建物が新堂廃寺の中でどのような性格をもつ建物であったか結論が出ていません。これについては出土遺物の詳細な研究によって、いずれ判明していくことでしょう。
 新堂廃寺研究はまた、新たな一歩を踏み出しました。
(平成11年12月号)

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