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富田林寺内町遺跡の発掘調査

印刷用ページを表示する掲載日:2018年3月5日更新
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 (仮称)まちづくりセンター建設に先立ち、昨年12月から今年2月にかけて、富田林寺内町遺跡の発掘調査を行いました。
 富田林寺内町は、永禄初年ごろ(1558~1561年)、証秀上人によって開発されたといわれています。現在でも、興正寺別院や江戸~明治時代の建物と町割りが非常によく残っており、国の重要伝統的建造物保存地区に選定されています。
 今回調査した場所は、寺内町の北側、富筋と壱里山町の交差する北東角にあたります。発掘調査の結果、上層(18世紀ごろ)、中層(寺内町成立期ごろ)、下層(奈良時代)の3つの時期の地層が確認されました。上層の面では、石で組まれた溝や瓦と漆喰で造られた竈、寺内町特有の道筋に隣接して建てられた建物跡などが検出されました。また、約300平方メートルの調査地内にいくつもの井戸跡や複数の屋敷を区画する溝が見つかり、幾度となく建物や土地が改変されたことが分かりました。これは、文献資料にある享保15年(1730年)の寺内町北部の火災による焼失や、建て替えなどが関係していると考えられます。
 中層の面では、寺内町を建造するときの盛土や、当時の町割りを示す区画溝が検出されました。この区画溝が現在の富筋と平行し、壱里山町と直角になるため、富筋や壱里山町など現在も残る町割りが当時のままであることが、建築学や文献史学だけではなく考古学からも証明されたことになります。また、この面では、屋敷内に造られた墓跡も見つかっており、江戸時代に近畿地方でよくみられた屋敷神信仰につながるものと考えられます。屋敷神信仰とは、先祖の供養とともに屋敷の安全などを祈るため、先祖の墓を自分の屋敷内につくる風習で、寺内町の中でもこのような風習が行われていたことが伺えます。
 下層の面では、奈良時代の遺構が確認され、石川で魚を採っていたのか、土錘(漁で使う網に付けるおもり)が大量に見つかりました。奈良時代の遺構は、市営若松第一住宅付近や富田林高校内でも見つかっており、この付近一帯が奈良時代の集落であったことが分かっています。
 市名の由来となった寺内町「富田林」は、江戸時代の町並みだけでなくさまざまな時代の生活が伺える文化財の宝庫です。
(平成17年7月号)

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