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富田林寺内町の地中には~最近の発掘調査から~

印刷用ページを表示する掲載日:2018年3月5日更新
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 富田林寺内町は、永禄初年(1558~1561年)ごろ、京都興正寺第16世の証秀上人によって開発されたといわれています。現在でも、寺内町の中心であった興正寺別院や、江戸時代に建設された歴史的な建物や町割りが残っており、9年には、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
 この富田林寺内町で、昨年10月から11月にかけて、住宅の建設に先立ち発掘調査をしました。調査地点は、富筋と北会所町の交差点から少し西に入った位置にあたります。
 この場所には、最近まで建物が建っていたことから、調査するまでは遺構が残っていない可能性も考えられましたが、発掘調査によって上層(江戸時代以降の地層)と下層(古代の地層)の2つの地層を確認することができました。
 上層では、建物跡と考えられる柱穴が確認でき、また、瓦や陶磁器などの遺物が出土しました。
 下層では、中世以降の遺物は全く見られず、土師器や須恵器といった土器片が出土していることから、寺内町成立以前の地層であると考えました。
 これまでの調査でも、寺内町開発に伴う建物跡や区画溝、井戸跡といった遺構や遺物のほかに、古代にまでさかのぼる遺物も見つかっており、寺内町ができる以前にも人が暮らしていたことが分かっています。
 今回の発掘では、上層の調査の際に、近年に地表から掘り込まれた跡(かく乱)がいくつもあり、遺構と区別するのに苦労しました。そのなかで最大のものは、40年ほど前まで操業されていた公衆浴場の跡でした。このようなかく乱は、私たちの世代やそのすぐ前の世代が残した最近の生活痕であり、現在は文化財であるとはいえませんが、何十年、何百年もすれば貴重な文化財と呼ばれるのかも知れません。
 富田の「荒芝地」と呼ばれた地で、証秀上人のもと、周辺4か村から集まった「八人衆」により開発された寺内町。江戸時代に流通の拠点として大きく発展した寺内町。そして、今なお残るいにしえの町並みや歴史的な建造物の下には、長い時間をかけて蓄積されたたくさんの人たちの生活が埋もれているのです。
(平成20年2月号)

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