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かめに入れられたお金

印刷用ページを表示する掲載日:2018年3月5日更新
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 昨年の夏に実施した若松町の畑ヶ田遺跡の発掘調査で、銅銭が5枚入ったかめを見つけました。銅銭はさびて文字がほとんど読めず、調査中に開催した現地説明会では、「和同開珎もしくは神功開寳と説明していました。
 調査後、かめを奈良文化財研究所に運び、X線で撮影して銅銭の種類を調べました。その結果、5枚すべてが神功開寳で、表を上に向けていることが分かりました。神功開寳は、和同開珎、萬年通寳に次いで、765年(奈良時代)に発行されました。発行時には、和同開珎の10倍の価値が与えられたといわれています。
 古代人は、なぜ貴重なお金を土器に入れて埋めたのでしょうか。同じような例は、当時の都であった奈良県の平城京跡でたくさん見つかっており、その目的は二つに分けられるといわれています。
 一つは、地鎮具として埋めたものです。今日の建物を建てる前の地鎮祭のように、土地の神様にお金をささげ、その土地を使うことを許してもらったのです。
 もう一つは、産まれた子どもの成長を願って、胞衣壺として埋めたものです。胞衣とは胎盤のことで、中世の貴族の日記には、表を上に向けたお金5枚の上に胞衣を乗せ、筆や墨などを添えるとの記述があります。筆と墨には、位の高い役人になれるようにという願いが込められており、お金と一緒に見つかった例もあります。
 畑ヶ田遺跡では、お金が表を上に向いていることと5枚であることが見事に一致していますが、筆と墨は見つかりませんでした。かめはふたをして埋められていましたが、見つけたときはふたが割れ、中に土が入っていたため、お金以外のものは腐って残らなかったのかもしれません。
 いずれにしてもこのような土器が地方で見つかるのは、大変珍しいといえます。当時の都の風習を知っている人が、富田林に暮らしていたということです。
 この現場には、新しい保育園が建ちました。その下に埋まっていたかめが胞衣壺であれば、何か不思議な縁を感じずにはいられません。
(平成24年4月号)

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