ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

錦織南遺跡の発掘調査

印刷用ページを表示する掲載日:2018年3月5日更新
<外部リンク>

 本市が25年度に実施した発掘調査では、二つの大きな成果が挙がりました。
 一つは、飛鳥時代のものと思われる陶硯(陶製の硯)が出土したことで注目された畑ヶ田南遺跡です。
 そしてもう一つは、畑ヶ田南遺跡と同時期に調査をしていた錦織南遺跡です。近鉄長野線「滝谷不動駅」から、線路沿いに600メートルほど南下した地点で、25年9月から12月にかけて、開発に先立って発掘調査を実施しました。
 これまでにも調査地周辺では発掘調査が実施されており、近鉄長野線の線路を挟んだ東側では縄文時代の土器を含む石川の旧河道が見つかり、西側では古代から中世の建物跡などがわずかに確認されていました。
 調査前は、今回の調査地においても、過去の調査成果に近い状況になるのではないかと考えていましたが、調査を進めていくと、当初の予想を大きく上回る、たくさんの遺構や遺物が出土しました。
 特筆すべき成果としては、竪穴建物跡が10棟、掘立柱建物跡が6棟と、たくさんの建物跡が見つかったことです。
 竪穴建物については、何棟も重なり合った状態で見つかったものもあり、同じ場所で何度も建て替えられていたことが分かりました。
 竪穴建物の時期については、出土した土器から、主として古墳時代後期(6世紀末)から飛鳥時代初め(7世紀初め)頃と思われます。
 掘立柱建物の時期は、出土遺物が少なく判断が難しいところですが、一部の掘立柱建物については、竪穴建物が埋まっていた土の上から柱穴が掘られていたので、その掘立柱建物が竪穴建物よりも新しい時期のものであるということは分かりました。
 周辺で実施された過去の調査では、古墳時代後期までさかのぼる集落跡は確認されていません。また、たくさんの建物跡が集中して見つかることも初めてです。
 このような成果から、今回の調査地が古墳時代後期から飛鳥時代にかけて、周辺一帯の中でも当時の集落の中心地であったと思われ、錦織南遺跡の性格を検討する上で非常に重要な成果が得られたものと考えています。
(平成27年3月号)

おすすめコンテンツ