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もみがら痕のついた土器

印刷用ページを表示する掲載日:2018年3月5日更新
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 米を食べるという習慣は、いつ、どこから日本に伝わったのか。これは、いまだに考古学者を悩ませている問題の一つです。
 これまで、日本では弥生時代になって稲作が始まったというのが定説になっていました。しかし、7年前に佐賀県の菜畑(なばたけ)遺跡で縄文時代の終わりごろの土器とともに、水田や炭化米、農耕具が発見され、縄文時代の終わりには、すでに稲作が始められていたのかも知れないという説が言われ始めました。
 また、稲作が伝わった道すじについても、中国の揚子江流域から直接日本に伝わったのか、朝鮮半島を経由したのか、結論は出ていません。日本列島の中での伝わり方は、西日本から東日本へ普及していったと信じられていましたが、昨年10年の日本考古学協会大会で、九州と東北で同時に稲作が始まった可能性があるという研究が発表され、注目を集めています。
 考古学は、新事実の発見とともに学説を塗り替え、あるいは確かめ続けています。
 さて、富田林でも若松町の中野遺跡から発見された弥生時代中期の壺の口に一粒のもみがら痕がついていました。壺を作る途中で、何かの拍子にもみがらがくっつき、そのまま焼き上がったものだと思われます。
 また、一昨年調査した近鉄喜志駅東の喜志西遺跡では、その壺よりも古い弥生時代前期の壺が、縄文時代終わりごろの深鉢と一緒に出土しました。このような弥生時代前期の土器は富田林では初めての出土です。
 同様の深鉢に、もみがら痕がついていた例がおおさか市内にあり、興味の持たれる発見です。喜志西遺跡は今年、再び調査される予定で、その成果次第では、富田林の先人たちの食生活の一端が分かるかも知れません。
 お正月の食卓を囲んで、私たちの先祖の食べ物に思いをはせてみてはいかがでしょう。
(昭和62年1月号)

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