ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

綿作りの村

印刷用ページを表示する掲載日:2018年3月5日更新
<外部リンク>

 私たちの住む富田林の田畑のあちらこちらに綿の花が咲き誇っていた風景を知っておられたでしょうか。
 一昨年の9月から10月にかけて喜志西遺跡(喜志駅周辺)で発掘調査をしたところ、稲作と綿作を行ったと思われる田の跡が見つかりました。このような田は、半田(はんだ)あるいは掻揚田(かきあげた)と呼ばれ、田に高い畦(うね)をつくり、そこに綿を栽培し、低い溝には稲を栽培していました。
 綿作りは、おもに江戸時代から大正の初めまでの数百年にわたって、河内地方で広く行われていました。明和6年(西暦1769年)に書かれた「喜志村様子帳」には、当時、喜志村で綿作が行われていた記録が載っています。
 綿は、河内木綿の原料として栽培され、河内地方の木綿の生産高は、当時の大阪生産高のなんと6割を占めていました。
 とくに河内地方の砂質地帯は良質の綿を生産でき、それを加工した河内木綿は、衣服用の反物・農作業着・ふとん地などに広く使われ、その名を天下にとどろかせたと言われています。
 当時は、「富田林寺内町」が南河内地方の商業の中心となっており、綿の商いなどが活発に行われていました。
 このように発掘調査の成果から、生産と流通という経済の一面をうかがい知ることができます。
(昭和62年2月号)

おすすめコンテンツ