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環濠(かんごう)を持つムラ

印刷用ページを表示する掲載日:2018年3月5日更新
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 現在のような高層ビルが建ち並ぶ都会からは想像もできない生活空間が地下に眠っています。
 今回の喜志遺跡の調査から弥生時代中期のムラでの生活の一端を知る資料が得られました。
 弥生時代は前の縄文時代と同じように土器や石器を使っていましたが、生活の様子は大きく変化しました。縄文時代は主に狩猟や木の実の採集によって食糧を手に入れていました。しかし縄文時代の終り頃から稲作技術が伝わったため、米作りが主になってきます。
 米作りがもたらした影響は大きく、社会の形態をも変化させました。一つは、貧富の差が生じたことです。米は保存が可能なため、余ったものは蓄積されます。こうして富むものは富み、貧しいものは貧しくなっていきます。二つは、米作りをすることにより定住生活を営むようになりました。米作りには多勢っで共同作業が必要となり、一つのムラを形づくっていきます。
 弥生時代のムラの多くは、日常生活に便利な川の近くの一段高くなった場所に営まれています。ムラは規模によって異なりますが、だいたい5棟ぐらいの住居と、やや大きめの建物(集会所的な性格のもの)1棟、倉庫1・2棟から構成されています。この建物群の周囲には、環濠(断面V字形の溝)がめぐらされています。この溝は、外からの防御の意味だけでなく、生産の場(水田)や墓域との区画の意味もあると考えられています。
 今回喜志遺跡で環濠の一部が発見されました。溝の幅は約3メートル、深さ約1.5メートルの断面V時形のものです。昭和62年の大阪府の調査でも環濠の一部確認されています。
 この調査は狭い面積でしたが、ムラの南限が確認できたとても貴重な調査です。
(昭和63年1月号)

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