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埴輪円筒棺の発見

印刷用ページを表示する掲載日:2018年3月5日更新
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 埴輪(はにわ)という言葉は、『日本書紀』の『垂仁(すいにん)天皇32年の条』に初めて使われています。
 『日本書紀』には、『かつて行っていた殉死(じゅんし)の代わりに土で人や馬を形どった埴輪を作り、古墳に立てた』と書かれています。古代史の研究では垂仁天皇が、本当に存在したのかどうか、また殉死の制度があったかどうかもわかってませんが、埴輪のはじまりとして興味深いものです。
 実際、古墳の発掘調査を行うと、人や馬だけでなく家・盾(たて)・鳥など実に多くの種類の埴輪がみつかります。しかし、古墳の中で最もたくさん使われているのは、筒形をした円筒埴輪です。
 今回、錦織遺跡で発掘調査を行い、円筒埴輪片や円筒埴輪を使ったお墓である、円筒棺が見つかりました。この調査地は、川西古墳のあったすぐ南側の場所です。川西古墳は、応神陵古墳や仁徳陵古墳のような巨大な古墳が造られた時期と同じ古墳時代中期(五世紀)の古墳と考えられています。
 調査で見つかった円筒棺は、市内で初めて発見されたものです。円筒棺は二基で、直径25~40センチのものを三本つなぎあわせた長さ1.3メートルのものと、円筒棺の回りに30センチ前後の石をめぐらせた直径30センチ、長さ90センチのものです。円筒棺は円筒埴輪を横に倒し、その中に遺骸(いがい)を入れ、両端を円筒埴輪の破片や朝顔形埴輪の上部などでふたをしたものです。
 棺として使用されている埴輪は5世紀のものですが、両端に使われている破片は6世紀埴輪です。また副葬品と考えられる須恵器の杯(つき)は、6世紀中ごろのものです。このことから考えると、円筒棺は6世紀ごろ以降に埋められたといえます。
 今まで円筒棺の多くは、古墳の周辺でみつかっています。この円筒棺も川西古墳のすぐ近くに位置することから、円筒棺に葬られた人は川西古墳に葬られた人と何らかの関係があった人かも知れません。
(昭和63年5月号)

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