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錦織遺跡の調査から

印刷用ページを表示する掲載日:2018年3月5日更新
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 昨年11月から12月にかけて、しろがね幼稚園の南方200メートルの錦織遺跡内にある関西電力の鉄塔建て替え工事に伴う発掘調査を行いました。
 この調査では、掘立柱建物は、出土遺物から奈良時代のものとわかりました。ふつう、掘立柱建物は長い間に朽ち果てたり、火災などによって焼失したりするため、柱穴の大きさや形、並び方などから当時の様子を推測するしかありません。しかし、この建物は、直接地面に穴を掘って柱を埋めるため、まれに地面に埋めた柱痕が腐らずに残っていることがあります。今回は、柱穴のひとつに、柱痕(地中に埋めた部分)を五角形に加工したもの(径約12センチ)が残っていました。
 また、大溝(幅4メートル・深さ約1.3メートル)の最下層から弥生時代後期から古墳時代初頭の土器が数点、中・上層からは、奈良時代前期から中期の土器が多数出土しました。このことから、弥生時代の終わりごろには機能し、奈良時代には埋没してしまったことがわかります。古墳時代初頭の土器は、庄内式土器(しょうないしきどき)と呼ばれるものです。石川東岸の別井遺跡で見つかっていますが、西岸では初めての出土例です。奈良時代前期から中期の土器には、多くの日常食器である皿や杯、煮炊用である甕(かめ)・甑(こしき=現在のせいろのようなもの)・土釜・かまどなどがあります。その中に、緑釉(りょくゆう=緑色のうわぐすりのかかっている陶器)片が、1点含まれていました。緑釉といえば、奈良の正倉院伝承の品が有名です。全国的にみても出土例は多くありません。緑釉は、寺院跡や集落跡・官衙(かんが=昔の役所)などから見つかっています。富田林でも、新堂廃寺跡からの出土例があります。
 今回の調査から、弥生時代後期から古墳時代初頭に区画性をもつ大溝があり、奈良時代前期から中期にかけての一大集落があったことがわかりました。
(平成元年2月号)

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