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飛鳥時代の竪穴住居

印刷用ページを表示する掲載日:2018年3月5日更新
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 市内の中心を流れる石川の西岸には良好な平坦地が羽曳野丘陵との間に広がっています。石川に近いところでは、東高野街道にそって古い集落が一定の距離をおいて現在もその姿をとどめています。
 近鉄富田林駅の北には中野遺跡があって、現在では旧国道170号線から外環状線にかけて水田地帯が広がり、旧国道の東には集落が古いたたずまいを残しています。古代の集落とその周辺の景観は現在とは異なった様相だったことが、最近の道路工事や住宅開発による発掘調査によって、しだいに明らかになってきています。
 今年の2月に行った旧国道に面した場所の調査では、6世紀末から7世紀初めにかけての飛鳥時代の建物跡が発見されました。建物跡には直接地面に穴を堀り、柱を埋めて固定した構造をもつ掘立柱建物と地面に一辺約3メートルの方形の掘込みをもつ竪穴住居があり、こうした竪穴住居の発見は中野遺跡ではめずらしく、当時の集落の建物構成がわかる資料として貴重なものです。この時期には竪穴住居がだんだん少なくなり、掘立柱建物が主流を占めていきます。この竪穴住居は非常に小さく、明確な炉跡などの施設が確認できなかったので、住居としての機能があったかどうかはわかりません。一方、掘立柱建物には住居と倉庫があったようで、これらの建物に囲まれて、小さな竪穴住居がぽつんと建っていたと思われます。
 いずれにしても調査地の周辺は古墳時代後半から奈良時代の掘立柱建物郡が集中する地区でもあり、当時の集落の中心であったと思われます。
 当時は仏教が伝わり、広まりを見せたころで、中野遺跡西方の府営富田林北住宅周辺には、飛鳥時代に建立された新堂廃寺があって、仏教文化の拠点としての役割りを担っていたことが明らかとなっています。これらの遺構は現在の水田の下に眠っていたもので、発掘調査によって、飛鳥時代の集落とその周辺の景観がしだいに明らかになったことは確かです。
(平成6年4月号)

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