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喜志西遺跡の古環境

印刷用ページを表示する掲載日:2018年3月5日更新
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 喜志西遺跡は、近鉄喜志駅周辺に広がる縄文時代から江戸時代までの複合遺跡です。
 ここ数年来、喜志駅東側の道路新設事業に伴って発掘調査を行ってきました。その結果、縄文時代の石器や弥生時代のお墓などが見つかっています。
 こうした物的な考古資料以外に、調査地に堆積した土壌を理化学的に分析することによって、当時の環境を探ることを試みました。具体的には、堆積物に含まれる花粉化石を調査する花粉分析やプラント・オパール分析を行うことによって、周辺地域での古植生の推定、遺跡内での稲作の確認のほか、遺構面の時代推定のため、その生物が死んでから現在までの経過年数を調べる放射性炭素年代測定を行いました。
 その結果、最下層の堆積は縄文時代前期(約6500年前)に相当することが放射性炭素年代測定で分かりました、このデータは縄文時代の石器が出土していることからも矛盾しないと思われます。また、この上層についてはや弥生時代から古墳時代にかけて堆積した可能性が考えられ、プラント・オパール分析から稲作の可能性が濃厚となりました。このことから、富田林でも弥生時代から稲作が行われていたと言えそうです。
 さらに、花粉分析からは弥生時代以降の植生の変遷が明らかになりました。大きく3期に分けてみると、1期(弥生時代から中世)には、富田林丘陵や南河内山地ではアカガシ類を中心とする照葉樹林が、金剛山地から和泉山地の山腹から山頂ではモミ、ツガ、コウヤマキ、スギを中心とする中間温帯林が分布していたと考えられます。また、遺跡内では稲作やソバ属の栽培が行われ、オモダカ属の水草が雑草として生育していたと考えられます。2期(中世以降)には、アカガシ類が少なくなり、アカマツを中心とする二次林が拡大したと考えられ、遺跡内では引き続き稲作たソバ属の栽培が行われ、3期(近代以降)には、アカガシ類も一部分布しながら後背の丘陵や山地にかけてはアカマツに広く覆われていて、遺跡内では稲作やアブラナ科の栽培が行われていたと考えられます。
 このように、理化学的調査によって、古い時代の環境を解明することが可能になるのです。
(平成6年9月号)

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