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古代の流れ

印刷用ページを表示する掲載日:2018年3月5日更新
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 今年の夏は異常小雨で、各地で渇水状態が報告されました。私たちの生活に欠かせない水は、府営水や滝畑ダム水をはじめ市内の中央を流れる石川の伏流水などの地下水によって賄われています。
 この石川は、今から約五十万年から二十万年前に今の流れを形成したと考えられます。それ以前は、市内の南部、河内長野市との境界付近から西方に錦織公園の南を流れる細谷川に沿って大阪狭山市の狭山池に向かって流れていたそうです。その後、地殻変動によって羽曳野丘陵や東方の金剛山脈が盛り上がり、元の流れを現在の石川の流れの方向に変えたそうです。この時できた石川谷の中央には平坦地ができ、約二万年前からこの地に人々が生活をし始めたことが古代人が残した遺物から明らかになりました。
 古代の人々は生活用水をどのようにして確保していたのでしょうか。こうした疑問を考古学的調査、つまり、発掘調査によって解明する手掛かりを得ることができます。縄文・弥生時代には、石川に接した地盤のよい場所に集落を営み、浅い井戸を掘ったり、川から水を汲んだりしていたと思われます。当時は、現在よりも水量が多かったに違いありません。井戸を掘って生活用水を確保する方法は、上水道が完備するまでは各村々で行われていたことで、古代からその方法を取り入れていたことがわかります。
 その後、平坦地に水田を作ることが行われます。この平坦地からは古墳時代の終わりごろの、かんがい用水路と思われる遺構が見つかっています。現在の水田を見てみると、石川に近いところでは上流から何本も水路をひいて、かんがいしています。これらの遺構もきっと石川から引き込まれたと推測されます。
 一方、羽曳野丘陵に近い水田地帯はどうだったのでしょうか。地図を見ると丘陵の谷をせき止めて、たくさんのたくさんのため池があることに気が付きます。これらの池は丘陵から流れる自然流路を活用したものです。この流路は、ため池が造られることによって、その機能を失うことになり、埋没することになります。このような流路が現在の水田の地下から、発掘調査によって見つかっています。
 こうしてみると、私たちの生活に自然の恵みが古代から、いかに大きな影響を与えてきたかが、あらためて思い知らされます。
(平成6年10月号)

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