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卑弥呼の時代の富田林

印刷用ページを表示する掲載日:2018年3月5日更新
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 「邪馬台国(やまたいこく)はどこにあったのか?」2・3世紀の日本について記された中国の史書『魏志倭人伝』(ぎしわじんでん)をもとに、さまざまな場所がかつての邪馬台国ではないかと考えられてきました。北陸から沖縄までその候補地、実に73か所。これほど人々の興味をひく古代史のテーマはありません。
 富田林にもその時代の集落址がいくつか残っています。現在、楠風台の西南端の丘陵にある彼方遺跡もそのひとつです。この集落は「倭国の大乱」と呼ばれる戦争をきっかけに邪馬台国の女王の地位について卑弥呼(ひみこ)の時代からその後を継いだ臺与(とよ)のころまで続いています。出土遺物から、この集落での生活の様子は『魏志倭人伝』(ぎしわじんでん)に描かれた邪馬台国と同じであったことが裏付けられています。例えば、弓矢には鉄製のやじりを用いていたこと、そして弓を射るときには下を短く上を長く持って構えていたこと、朱を使っていたこと、食器として高杯を使っていたこと、稲・麻を植え、糸を紡いでいたことなどです。
 さらに注目すべきことには、邪馬台国の最も有力な証拠となる三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が富田林でも出土していることです。
 卑弥呼は景初3年(西暦239年)12月、魏の明帝(めいてい)に使いを送りました。その見返りに明帝から「親魏倭王」(しんぎわおう)の地位とたくさんのお土産をもらいます。そのお土産の中に銅鏡百枚がありました。この鏡をめぐっては多くの意見がたたかわされています。近畿の古墳でたくさん出土する三角縁神獣鏡の中には卑弥呼の使いが魏を訪ねた景初3年、使いが魏を発った正始元年(西暦240年)の銘をもつものがあり、これらを中国鏡を認めるなら、魏から持ち帰った鏡とも考えられます。ところがこの鏡は中国で一枚も見つかっていないのです。このことから中国の考古学者が揚子江南の呉(ご)の技術者が日本に渡り、邪馬台国のために鋳造したと解釈しています。これに対してこれを中国鏡を認める研究者もいて、なかなか決着はつくません。
 この渦中にある三角縁神獣鏡が喜志の美具久留御魂神社(みぐくるみたまじんじゃ)の南300メートルにあった真名井古墳から出土しています。
 こうして見てくると、富田林も邪馬台国と全く無縁ではなく、案外、当時のクニの一つが彼方遺跡あたりにあったのかも知れません。
(平成6年11月号)

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