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埋もれた古墳

印刷用ページを表示する掲載日:2018年3月5日更新
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 近鉄電車が大阪市内から大和川を渡り南河内に入ると景観が一変します。住宅密集地からのどかな田園地帯が広がり、その中で目を引くものに緑の森や丘があります。特に藤井寺市内から羽曳野市内に入ったとたんに、ひときわ大きな森が目に入ってきます。これらは大王陵を中心とする古墳群で、なかでも最大の前方後円墳である応神天皇陵が有名です。
 富田林市内には古市古墳群のような大規模な古墳はありませんが、近鉄川西駅西方の小さな森の中に新家古墳があり、石川を挟んで東方の丘陵の裾には彼方丸山古墳が住宅地の一角に残っています。一方、市内の西に延びる羽曳野丘陵にも古墳が点在しています。市民会館のある粟ケ池西方の喜志の宮さん(美具久留御魂神社)の御神体である裏山には前方後円墳や円墳があり、この南方には昔から古墳の天井石や石棺が露出していて、石の形が亀に似ていることからお亀石古墳と呼ばれている有名な古墳もあります。
 このように現在その姿をとどめている古墳以外にも姿を消してしまった多くの古墳があります。これらの古墳は、以前からその存在が知られていて、宅地造成などの工事によって消滅してしまったものの他に、その存在すら知られていないものもあります。こうした古墳が発掘調査によって発見される例が最近増えています。これらの古墳は小規模なものが多く、被葬者は大和政権から古墳の造営を許された最下層の人々であったと推測されます。
 昨年の9月、市内の最北端にある喜志遺跡の発掘調査で、弥生時代の土器や石器に混じってたくさんの埴輪片が出土しました。調査地一帯は、古墳の存在すら想像がつかない水田地帯でした。埴輪は、もともと古墳の周囲に並べられたもので、その発見は、調査地周辺に埴輪を並べた古墳が存在していたことを推測させるものです。発掘調査から中世の頃に一帯が水田化され、古墳も破壊されてしまったようです。埴輪には、女性の人物埴輪や円筒埴輪がありました。
 古墳の存在については、地元では知られていなかったようです。しかし、調査地周辺の字名が「高塚」であることから、消滅するまでは高塚古墳と呼ばれていたのかも知れません。
(平成7年2月号)

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