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喜志西遺跡の調査

印刷用ページを表示する掲載日:2018年3月5日更新
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 喜志西遺跡は、喜志駅周辺に広がる弥生時代から中世にかけての遺跡です。特に弥生時代中期(約2000年前)の、回りに四角く溝を巡らせた墓(方形周溝墓)や、大きな甕を利用した墓(甕棺墓)が発見されていて、この遺跡の北東にある喜志遺跡に住んでいた人々の墓地であったと考えられています。
 今年4月中旬から5月初めにかけて、喜志駅の東約200メートルの地点を発掘調査しました。今回の調査の成果を時代を追って見ていきましょう。
 喜志駅から東に行くと喜志小学校のある辺りで少し高くなり、西に行くと大阪外環状線の辺りからなだらかに高くなって、羽曳野丘陵につながっています。今回の調査地はその間に挾まれた、谷の底の部分になります。そのため昔はこの辺りを川が南からきたへ流れていました。しかし調査地の部分は岸に近いため、流れが悪かったようで、ヘドロ状の堆積を観察することができました。
 ヘドロ層は厚さ約一五センチで、この堆積層のなかには古墳時代の土器が少量含まれていました。
 川が埋まってしまったあと、この地に四角い穴が掘られました。穴は2か所あり、ともに長さ約2メートル、幅約1メートルの長方形をしています。
 これらの穴に直接遺体を葬るだけの簡単な墓(土壙墓)であるとも考えられますが、はっきりしたことは分かりません。穴の中からは古墳時代後期(約1300年前)の土器が出土しています。
 その後、時期の異なる2面の水田が存在していたことが分かりました。長期間水田が営まれてたようで、この地が米作りに適していたことをうかがわせます。
 このように見ていくと、人が直接住んでいたのではないものの、この地が人との関わりが深かったことを物語っているといえます。
(平成8年7月号)

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