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山中田古墳の変遷

印刷用ページを表示する掲載日:2018年3月5日更新
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 昨年12月、多数の玉類(アクセサリー)や短甲(胴を守る鎧)が発見された山中田1号墳がある大伴小学校の南側に広がる丘陵から、本古墳を含めて9基の古墳が発見されました。以下これらの古墳を時代ごとに分けて、見て行きたいと思います。
この丘陵に古墳が築かれ始めたのは、4世紀末から5世紀初頭で、山中田1号墳と、調査区の南端の谷筋の付け根から、もう1基検出しました。この古墳は、後世に削り取られていましたが、直径約15mの円墳だと思われます。また、古墳の周囲を巡る溝には、円筒埴輪が一定の間隔で並んでいました。
 5世紀前半になると、丘陵から北西方向に伸びる、尾根の先端の見晴らしのいい所に古墳が築造されました。墳丘は残っていませんでしたが、尾根の付け根側にのみ、周溝を巡らしていることが確認されました。これもまた、直径が約15mの円墳と推測されます。
 埋葬施設は木棺を直接、墓穴に埋葬していたと思われます。鉄製の剣、斧、矢の先が出土しました。
 5世紀後半から6世紀初頭には、古墳は丘陵上から、北西方向の丘陵裾部に移動しています。4基の古墳が確認されましたが、すべて墳丘は残っていませんでした。ただ、4基の古墳は方向を供えて築造されており、生前、お互いに親密な関係にあったと思われます。
 なお、墳形は15m前後の方墳と思われます。また興味深いことに2基の古墳が、古墳の周囲を巡る溝をお互いに共有していました。周溝の中からは多数の円筒埴輪が出土し、築造当初は古墳の周囲に飾られていたと思われます。
 7世紀代になると、北西方向に伸びる尾根の南側斜面に古墳が築かれるようになります。古墳の埋葬施設は小石室の一部を残すのみでしたが、南方向に入り口があったと思われます。
 このように、この丘陵では4世紀末から7世紀代にかけて古墳が連綿と築造されていました。おそらく、丘陵周辺を支配していた豪族の墓域であったと思われます。
(平成9年11月号)

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