ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

粟ヶ池の恵み

印刷用ページを表示する掲載日:2018年3月5日更新
<外部リンク>

 市内の宮町に鎮座している、式内社(平安時代に編さんされた延喜式に記載されている古社)である美具久留御魂神社の東方には、粟ヶ池と呼ぶ南北400m、東西200mの灌漑用水池があります。
 この池は人工の池で、日本書紀の仁徳天皇の条にある和邇池にあたると言われ、古くからあったことが想像されます。
 また、池の東方向には桜井町を中心とした桜井遺跡、中野町を中心に中野北遺跡が広がっています。これらの遺跡からは弥生時代の遺物、遺構が確認されている所もあり、弥生時代にはすでにこの辺りが開発されていたと推定されます。日本書紀に桜井屯倉として桜井の地名がみられます。屯倉は、大和朝廷の直轄地から収穫した米を蓄積した倉をさし、富田林市の桜井がこれに当たるとの説もあります。
 さて、今回発掘調査を行った場所は粟ヶ池の東側を南北方向に走る旧170号線沿いにあり、桜井遺跡の範囲にあたります。
 発掘調査の結果、古墳時代後期から平安時代の遺構、遺物が見つかりました。部分的な調査のため、確認できる事が限られていましたが、興味深い遺物が出土しました。それは、甑と呼ばれる、食べ物を蒸すための道具です。この土器は底部に穴がある深鉢形の土器です。この穴は蒸気が通るためのもので、穴が一つのものと、複数のものとがあります。今回、集落跡に伴う遺構から出土した甑は穴が一つでした。この甑は、古墳時代後期の須恵器とともに出土しており、その時期のものと思われます。
 その後、平安時代後期には、この調査区が耕作地として使用され続けていたことがわかりました。おそらく、耕作地は粟ヶ池の水を利用して多くの実りを得ていたと思われます。また、近くにある美具久留御魂神社は別名、下水分神社とも呼ばれており、この地域がいかに水との関係が深いかが想像されます。
 今回の調査では、集落跡から耕作地へと発展して行く様子が分かり、改めて粟ヶ池、下水分神社と周辺地域とが水によって強く結ばれ、発達していったかが感じとられました。
(平成10年5月号)

おすすめコンテンツ