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刀杼のはなし

印刷用ページを表示する掲載日:2019年5月13日更新
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 富田林が生んだ歌人、石上 露子の生家であり、国の重要文化財に指定されている旧杉山家住宅には、昔使われていた、さまざまな生活道具が残されていました。下の写真の不思議な形をした物もその一つですが、いったい何でしょう。
とうひ
 これは河内木綿を織るときに使われた道具の一つで、刀杼という物です。織物を織るときに経糸に緯糸を通すための道具を杼といい、河内木綿を織るときには刀杼と呼ばれる杼が使われていました。
江戸時代、河内地方は綿の栽培が盛んでした。収穫した実綿を種と繰り綿に分け、繰り綿から糸を紡いで木綿を織っていました。こうして織られた木綿は丈夫で、河内木綿として知られていました。
 江戸時代に書かれた『綿圃要務』という書物には、糸車を回して糸を紡ぐおじいさんの絵が描かれており、大和・河内・和泉では、女性だけでなく男性も糸を紡いでいたことが分かります。男性が紡いだ糸は太く、その糸から織った木綿は丈夫で、女性が紡いだ糸は細口の上木綿で大変美しい、と記されています。
さて、写真では見えにくいのですが、3点の刀杼にはそれぞれ墨書が見えます。
 上の刀杼には「大極上惣角入/杉山長左衛門」の文字が見え、刀杼の各所に象牙か動物の角らしきものが使われていることが分かります。
 真ん中の刀杼には「大極上也/廿五銭/弐銭引也」の文字が見え、刀杼の価格が記録されています。
 下の刀杼には「文化三年二月求之/杉山」の文字が見え、江戸時代の文化3年(1806年)石上 露子の曽祖母みねが生まれた翌年に購入された物と分かります。
 よく見ると、刀杼には無数の線が規則正しく並んでいます。これは経糸の跡でしょう。緯糸を通すたびに刀杼で打ち込むため、一反の布を織り上げるには、刀杼は数えきれないほど何度も経糸の上を往復します。この刀杼も糸の跡が付くほどたくさんの河内木綿を織り上げたのでしょう。
 これらの刀杼は、11月に寺内町センターで展示を予定していますので、皆さんぜひご覧ください。
(平成29年10月号)

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