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描かれた富田林寺内町

印刷用ページを表示する掲載日:2020年10月7日更新
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今年4月、「富田林寺内町絵図」7点を本市で初めての市指定文化財に指定しました。
写真は7点の絵図のうち天保8年(1837年)作成と考えられる絵図(写真1)に描かれた一里山口付近を拡大したものです(写真2)。
一里山口には門が描かれ、その両側にはその名の由来である一里塚が描かれています。
一里山口から南に延びる亀ヶ坂筋の東側には御触書(おふれがき)を掲示するための高札場が描かれています。
一里山口には「新堂村江御移り道」、向田坂口には「甲田村ヨリ当村江御移り道」と記され、両地点を結ぶ東高野街道が他の道筋に比べてひときわ太い線で描かれています。
「御移り道」とあることから、この絵図は幕府の巡見使が通る道筋を示したものと考えられます。
江戸時代、幕府が地方の政治や民衆の状況を視察するために各地へ派遣した役人を「御巡見(ごじゅんけん)」と呼び、後に将軍の代替りごとに全国に派遣されるようになりました。
天保8年、徳川家慶(いえよし)が12代将軍になり、翌年2月から全国に巡見使が派遣されました。
地元に残る古文書によると、天保9年閏(うるう)4月21日に富田林村を訪れた一行はここで宿泊し、翌日、東高野街道を通って新堂村、中野村、喜志村の順に訪れたことがわかります。
また、この絵図では一里山口、山中田口、山ヶ坂口、向田坂口の4か所に門が描かれています。
『年中録(ねんちゅうろく)』(仲村家所蔵文書)によると、天保8年に町内の有力者によって12の門が寄進されており、当時村内12の出入口それぞれに門が作られることになっていますが、本図作成時には他はまだできていなかったものと思われます。
他の資料と重ねてみることによって、絵図に描かれた内容からより多くの情報を見出すことができます。

天保8年富田林村絵図(写真1) 「天保八年(1837年)富田林村絵図」

天保8年富田林村絵図部分拡大(写真2) 「天保八年(1837年)富田林村絵図」部分拡大

 

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