ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

「もずふる」時代の富田林

印刷用ページを表示する掲載日:2021年3月2日更新
<外部リンク>

百舌鳥・古市古墳群が世界遺産に登録され、1年以上経ちました。藤井寺・羽曳野市に巨大古墳が造られた5世紀、同じ南河内の富田林はどんな状況だったのでしょうか。まず、古墳時代の始まりから見ていきましょう。


日本で最初の巨大古墳は、奈良盆地にある箸墓古墳です。3世紀中頃に亡くなった卑弥呼の墓との説が有力です。南河内に古墳が現れるのは4世紀前後で、最古級の前方後円墳である真名井(まない)古墳(南旭ヶ丘町)から見つかった鏡は、中国が卑弥呼に贈ったうちの1枚との説もあります。その後も、丘陵上には前方後円墳の廿山古墳(廿山)や円墳の板持丸山古墳(東板持町)などが次々と造られ、それらから見つかったとされる矢じりや鏡が、東京国立博物館に保管されています。

また、令和元年に調査した樟木谷(くすのきだに)古墳(美山台)は、近くに存在した方墳の宮林(みやばやし)古墳と同じ形で、古墳の向きをそろえていたことが分かりました。斜面からは柱穴が1つ見つかっており、柱を立てて祭祀(さいし)を行っていたのでしょうか。

このように富田林は、南河内の中で早くから古墳を造る有力者がいた地域だったのです。しかし、5世紀に入ると古墳が少なくなることから、勢力が弱まったとの見方もありました。

しかし、今、それを覆すものとして、錦織に存在した2つの古墳が注目を集めています。


市営甲田住宅の付近には、昭和初めまで円墳の川西古墳があり、鉄製の甲冑(かっちゅう)が見つかったとされてきました。調査が古いこともあって実態は不明でしたが、当時調査した研究者によって、関西の大学に資料が保管されていることが最近明らかになりました。

また、川西古墳に接する錦織遺跡(錦織東)には、未知の古墳が眠っているようです。平成28年の調査で、住宅街の下から古墳の表面を覆う葺石(ふきいし)とみられる石積みが姿を現したのです。市内で葺石をもつ古墳は珍しく、立派な古墳であったことをうかがわせます。川西古墳と同じ5世紀代のもと考えてよいでしょう。

錦織遺跡で発見された古墳の葺石

権力の象徴でもある甲冑をもつ古墳と、地中に埋もれていた古墳。「百舌鳥・古市古墳群」時代の富田林のイメージが変わりつつあります。

(令和3年3月号)

おすすめコンテンツ