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江戸時代のワクチン接種

印刷用ページを表示する掲載日:2020年10月7日更新
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流行を繰り返してきた天然痘(とう)

感染力が強く、死に至る病として世界中で恐れられた天然痘は、日本でも奈良時代以降、何度となく流行を繰り返してきました。仲村家文書(市指定文化財)の「年中録」には、嘉永元年(1848年)前半に、富田林を含む地域で天然痘が大流行し、多くの子供が亡くなったことが記されています。安政2年(1855年)2月、仲村家に男の子が誕生しました。後に富田林村初代村長となる時之助です。翌年2月、満1歳の誕生日を迎える直前、父、信道は時之助に、道明寺村の漢方医、上田 元厚の元で種痘(天然痘ワクチンの接種)を受けさせました。これは、この地域における種痘としては最も早い例です。

天然痘ワクチンの普及

イギリスの医師、ジェンナーによって18世紀末に開発された天然痘ワクチンが日本に伝わり、大坂では嘉永2年11月、緒方 洪庵らによって除痘舘が開設されましたが、種痘が一般に普及するのはまだ先のことでした。種痘が南河内に普及していくのは慶応3年(1867年)後半のことです。安政5年3月と4月には、前年5月に生まれた時之助の妹の節も同じく、上田さんの元で種痘を受けています。現代では特定の病気に対する予防手段として、ワクチン接種はごく一般的ですが、当時の人々にとっては未知のものであり、迷信や恐怖がつきまといました。しかし、天然痘に対する恐怖はそれに勝るものでした。信道自身も6人の兄弟姉妹のうち3人が幼少期に天然痘にかかり、その恐ろしさが身に染みていたからこそ、満1歳になるかならないかの幼い我が子に種痘を受けさせたのでしょう。

「年中録」安政5年4月の項(道明寺村上田元厚の元で種痘を受けたことを記す)

道明寺村、上田 元厚の元で種痘を受けたことを記す「年中録」

天然痘の根絶宣言

明治以降、国をあげて種痘の普及が進められました。1980年5月、Who(世界保健機関)により天然痘の根絶宣言が出されました。

 

江戸時代のワクチン接種

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