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東奔西走(令和2年10月号)

印刷用ページを表示する掲載日:2020年10月30日更新
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 先日の10月19日、朝日新聞の「天声人語」に、本市で7年前から栽培されている岩手県大槌町の「奇跡の復興米」が、同町の菊池妙さんのお宅に今年も新米として「里帰り」したことが紹介されていました。一読し、涙が止まりませんでした。詳しくは紙面をご覧ください。この機会に、この取り組みに係わってきた一人として、市民の皆様にこれまで触れられることの少ないエピソードを含めてご紹介したいと思います。

 

 2011年3月11日の東日本大震災発災以降、各自治体が継続支援先を分担する「カウンターパート方式」がとられ、大阪府は和歌山県とともに岩手県を支援することとなり、富田林市は他の自治体とともに大槌町をカウンターパートとして消防署員をはじめ職員の派遣、物資の提供などの支援活動に取り組んできました。当時私は本市出身の府議会議員でもあり、支援先である大槌町の皆さんの現状や復興にむけた活動を市民の皆さんにお伝えしたいと思い、たびたび大槌町を訪れていました。

 私が大槌町での「がれき」除去のボランティアに参加した時、ミーティングで指示を受けました。「ボランティアの皆さん!たとえ「がれき」でも、被災者にとってはかけがえのないものばかりです。また、写真、アルバム、卒業文集、結婚式の時の品物など、思い出の品はすべて保管し、被災者にお返しします。くれぐれも被災者の気持ちを汲んで行動してください!」全員に緊張感が走りました。そして、家の柱、瓦、ドア、たんす、畳、食器、衣類、御仏壇、家電製品、机、時計、ランドセル、文具・・・などなど、すべての「がれき」に、ありし日の暮らしを痛感しながら、一列になって搬出を行いました。

 そのような中で、多くの大槌町の皆さんと出会いました。皆、歯を食いしばり、復興にむけて立ち上がっておられました。当時、町長だった碇川豊さん、総務部長で現町長の平野公三さんなど、大津波で元町長さんはじめ多数の職員の方々が犠牲になられた町職員の皆さん。漁港もろとも壊滅的被害を受けた水産加工会社の皆さんが作られた「立ち上がれ!ど真ん中・おおつち」さん。仮設倉庫で地元農産物を販売するとともに、周囲に商店が無い仮設住宅への移動販売に取り組まれていた「結ゆい」さん。全国からやってくるボランティアのためにもと、仮設食堂「よってたんせぇ」を立ち上げられた「マリンマザーズきりきり」さん。町内の震災「がれき」を「かけがえのないふるさとの一部」として再加工し、キーホルダーを制作されていた「和 RING-PROJECT」さん。津波で蔵が流出しながらも県内の他の酒蔵を借りて酒造りを継続されていた「赤武酒造」さん。その他にも「おらが大槌夢広場」や「きらり商店街」、「小川旅館 絆館」、仮設の「きらり商店街」の皆さんなどなど、本当に多くの町民の皆さんとの忘れられない出会いがありました。

 大震災当時、大槌町の消防団長をされていた煙山佳成さんのお話も忘れることができません。煙山さんは、妻、ご子息、そして同居されていた義母様を津波で亡くされました。「地震が起こってすぐに家に帰ると、もうヘルメットと懐中電灯が用意してありました。妻からは『早く行って』、私は『頼むぞ』と会話したのが最後でした。妻と息子は、介護が必要だった義母と最後まで一緒だったのだと思います。消防団員はみな、使命感のみで活動しました。避難誘導中に津波に流された団員や、半鐘を鳴らしながら亡くなった団員もいます。災害に備えて、最も大切なのは避難訓練ですよ」と教えてくださいました。

 このような多くの皆さんとの出会いの中で知ったのが、「遠野まごころネット」の皆さんが、大震災の翌年から育てておられた奇跡のお米「大槌復興米」の活動でした。2013年8月、激しい雨が降る日でした。栽培に取り組まれていた臼澤良一さん(現大槌町議会議員)に、水田に連れて行ってもらいました。臼澤さんに「できればこのお米を富田林でも栽培したいと思うのですが、「種もみ」を譲ってもえないでしょうか?」とお尋ねしたところ、「お気持ちは分かりますが、地域の復興のシンボルとして門外不出にしていて無理なのです」とのお返事でした。

 当時、大震災からまだ2年余りしか経っていませんでしたが、被災地以外での「東日本大震災の記憶の風化」が報道等で指摘され始めていました。私は、大槌町の皆さんとの出会いの中で、継続的な取り組みが必要な復興支援で、被災地以外の人間ができることは、まず「忘れないこと」「関心を持ち続けること」「小さくても何らかの形で関わり続けること」ではないかと思っていましたので、その後も大槌町を訪れる度に、厚かましくもお願いを繰り返してきました。そして忘れもしない2014年2月13日、「富田林の皆さんを信用してお譲りします。どうぞ大事に育ててやってください」と「種もみ」1キロを託されました。

 胸に抱きながら持ち帰った「種もみ」を持って、すぐに中谷清JA大阪南代表理事組合長(当時)にご相談に伺いました。中谷組合長は「この大切な復興米を、ぜひ富田林、南河内で育てようじゃないか」と快諾してくださり、富田林での「奇跡の復興米」の取り組みが始まりました。まず、「種もみ」を発芽させて苗まで育てなければなりません。実は「奇跡の復興米」の品種は、主に東北地方で栽培される「ひとめぼれ」でした。早生の早品種で、通常富田林で栽培されるお米よりも早く植え付ける必要がありました。育苗を担当してくださったJA大阪南の梅川雅弘さんと奥野恭宏さんからは、後に「東北地方とこちらでは気温差が大きく、発芽するのか心配で正直プレッシャーを感じました。夜は自宅に持ち帰り、苗床の湯の温度を高めに保ちました。4日目に小さな芽が顔を出し、1日4回の水やりを続けて1ケ月、20センチほどの苗に育ってくれました。5枚のパレット一杯に、田植えを待つ青々とした苗に育った時は本当にうれしかったです」とお聞きしました。

 その後、初めての栽培地は市内喜志地区のボランティアグループ「喜翔会」の方が所有される水田に決まり、田植えは市立喜志小学校の5年生の子ども達が行ってくれることとなりました。5月25日に行われた田植えの光景も忘れられません。テレビ局や新聞社も取材に来てくれました。その後、東條地区の水田でも栽培が始まったほか、市内16校すべての小学校5年生の子ども達による「バケツ苗」の取り組みに拡大しました。また「奇跡の復興米」の劇化やミュージカル化の取り組みも生まれました。その後、「奇跡の復興米」は大槌町に「里帰り」できるまで育てることができ、2015年からは大槌町の子ども達の小学校給食で食べてもらえるようにまでなっています。今年は中止になりましたが、市の農業祭ではJA大阪南女性部の皆さんが「おにぎり」にして参加者の皆さんに振る舞っていただいています。ちなみに、稲わらは天王寺動物園飼育室で活用していただいています。

 最後になりますが、以前、菊池妙さんからいただいたお手紙の一節をご紹介いたします。
「私は、岩手県大槌町の小さな漁師町で、あの津波に被災し絶望の日々の中、わが家の玄関の基礎だけ残った跡地のガレキの中に、3束の稲が背は低くやせてこそおりましたが、背を張り凛と実っておりました。もともと田んぼなど無い地に、どこからか津波に流され自生していたのです。生命の強さと、また生命のはかなさにボロボロ泣いてしまいました。その後、“大槌復興米”と命名され多くの皆様の御協力のもと、75束からの田植えがスタートいたしました。“田舎者”の復興米も大阪の皆様が大切に育ててくださり、感謝していることでしょう。」

 大槌町から750キロ離れた富田林市で、大槌町の皆さんと富田林市の皆さんの「想い」を受けて育ち続ける「奇跡の復興米」。東日本大震災という惨禍を免れた私達にできることは、被災地の皆さんと心をつなぎ、息の長い支援を続けていくことだと思います。その絆の力は、大槌町でも富田林市でも、きっと何らかの地域の力に育っていくと信じています。

 今年、大槌町は町制施行130周年を迎えられました。同じく富田林市は、市制施行70周年を迎えました。東日本大震災という予期せぬ大惨禍の中で生まれたご縁でしたが、このご縁と互いの絆を一層強め、未来につないでいきたいとの思いで、11月には自治体間の「連携協力に関する基本協定」を締結する予定で準備を進めています。

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